講演録「アンダーコロナ時代のウェルビーイング」

アンダーコロナ時代のウェルビーイング

先日、帝国ホテルにて、200名ほどの方々を前にお話しさせていただく機会がありましたので、ここに備忘録としてスピーチ原稿のメモを残します。

フェアワーク 代表 吉田健一 / 2020年9月3日

目次

自己紹介

私は、同じく精神科医である妻と一緒に、中央区内で精神科クリニックを運営しつつ、精神科産業医としても参議院や国土交通省から上場・非上場企業まで様々な企業に勤務して参りました。

仕事柄、心身の不調により社会生活や家庭生活に困難を来す方々を多く目にすることから、全ての人びとが健康かつ幸福に社会参加できる世の中づくりに貢献したい、という思いを自らの職業意識の基盤としております。

本日は2019年に中国武漢で最初に報告され、その後世界中で猛威を振るい、今も私たちの生活に暗い影を落とす、新型コロナウイルスCOVID-19をめぐる時代状況と、これからの私たちの社会について、私見を交えてお伝えさせていただきます。

ビル・ゲイツのアウトブレイク警告

2015年、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏が「The next outbreak? We’re not ready(アウトブレイクは来るか?私たちはまだ準備できていない)」と題した講演を行いました。これがまさに現在のパンデミックを予言したような内容で、同氏はこう述べています。

「もし次の数十年で1千万人以上の人々が亡くなるような災害があるとすれば、それは戦争ではなく、感染性の高いウイルスが原因の可能性があります。ミサイルではなく 微生物なのです。その理由の一つは、これまで私たちは核戦争への備えに巨額の費用をつぎ込みましたが、疫病への備えは殆ど何もしていない事です。私たちは次の疫病の蔓延への準備ができていないのです」

実際に新型コロナウイルスが蔓延した2020年から振り返ってみると、まさに慧眼であります。

彼はスピーチ中で「パンデミックに備えることは、世界的に健康における公平性を向上させ 、世界をより公正で安全な場所にすることでしょう 」と指摘し、講演の最後を「今始めれば次の疫病への対策は間に合います」と締めくくりました。しかし残念ながらその懸念は現実のものとなってしまいました。

ウェルビーイングとは

さて、1947年に採択されたWHO憲章では、「健康」を次のように定義しています。

「健康とは、病気でないとか弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます」と。

この「すべてが満たされた状態」と訳されているのがwell-beingであります。つまりWHOの定義する「健康」とは、「身も心も、かつ社会経済的にも満たされた状態」を指していることになります。

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本日はスピーチのタイトルを「アンダーコロナ時代のウェルビーイング」といたしましたが、猛烈な第2波、またはCOVID-19とはまた別の、新たな感染爆発がいつ起こるともしれない不安な時代において、この「すべてが満たされた状態」を目指すことは可能なのでしょうか。

皆様も、アフターコロナ・ポストコロナ、という言葉を耳にされたことはあるかと存じますが、いつ訪れるかわからない「コロナ後の世界」を予想することよりも、おそらく今後2-3年は続くと思われる「アンダーコロナ」の状況を、まずはしっかりと認識したいと思います。

「アンダーコロナ」の社会心理

アンダーコロナ、という言葉には、疫病によって、人びとの移動や経済活動の自由が制約され、本来はいち病原体に過ぎないウイルスが、あたかも目には見えない新しい抑圧者のごとく振る舞い、生命まで脅かされている、という現代に生きる人びとの不安感が込められています。

この状況をより複雑にしているのは、今日の世界的な感染拡大の一因となった政治体制をもつ中国自身が、強力な政治的統制や市民の監視により比較的速やかに国内の流行を収束させたこと、それに対して自由主義陣営を代表する米国やヨーロッパ諸国で膨大な数の感染者や死者が発生し、それがここ数年の両陣営の経済的・政治的対立と相まって、根本的な体制をめぐる論争にまで先鋭化しつつある点です。

COVID-19の全世界への拡散に関して様々な陰謀説が飛び交い、両陣営から批判の応酬があった事実は記憶に新しいところです。翻って我が国の現況は、感染率や死亡率では他の東アジア諸国の状況に近いものの、自由主義経済陣営の一員としては、主に英米圏との経済活動や人的交流が再開しないことには、豊かで安定した社会生活の回復は期待できず、難しい舵取りを求められているように見えます。

疫病は人間社会をどのように変えてきたか

今回のCOVID-19に限らず、歴史上、疫病が各時代や社会において、高い死亡率によって人口構成にまで影響を及ぼし、文明の衰退や滅亡を引き起こし、その後の社会構造の変動に至った例は、枚挙に暇がありません。

例えばこれまで紀元6世紀、14世紀、19世紀と3度の大流行が記録され、14世紀のヨーロッパにおいては「黒死病」として恐れられたペストでは、当時のヨーロッパ人口の1/3が亡くなったとされています。

果たして私たちの社会は、アンダーコロナ時代においても「全てが満たされた状態」を維持することができるのでしょうか。この不安な時代を見通し、今般の世界的な惨禍を「正しく恐れる」ためにも、ここで、人類が根絶に成功した唯一の感染症である天然痘ウイルスを例に、歴史をご紹介したいと思います。

そもそもウイルスとは何でしょうか?ウイルスがどのようにして生まれたか、その起源については諸説ありますが、現在最も受入れられている学説は、細胞の遺伝要素の一部だけが独立した、という説で、オーストラリアの免疫学者で1960年にノーベル医学生理学賞を受賞したバーネットが提唱したものです。

ウイルスは、それ単独では増殖できないものの、宿主となる動植物の細胞に潜り込み、その細胞の機能を利用して自らを複製する、究極の寄生性の微生物と見做すことができます。

結核菌やペスト菌、といった細菌の場合は、一定の条件下において単独でも増殖し、その姿を光学顕微鏡で観察することができますが、ウイルスのサイズは細菌より遙かに小さく、電子顕微鏡でなければ見ることはできません。

多くのウイルス感染症は人獣共通感染症

ウイルス感染症の多くは、人間と野生動物との接触が原因です。太古の昔、人類が野生動物を家畜化したことで、人間社会にもウイルスがもたらされたと考えられています。人類の祖先は100万年ほど前にアフリカに出現し、現在の人類ホモサピエンスが出現したのがおよそ20万年前、それに対し、ネズミやウシやブタの祖先が出現したのはおよそ5000~6000万年前と考えられています。

これらの哺乳類は、人類のはるか以前から地球上で生活していたわけで、したがって人類よりも先に、様々なウイルスに感染していたと考えられます。人類が農耕生活を始め、家畜の飼育などにより動物と接触するようになったことで、動物のウイルスがヒトに感染し、その後ウイルスがヒトに適応して、ヒトの間で広がるようになったと推測されています。

たとえば、はしかの原因となる麻疹ウイルスは今から8000年ほど前に、また天然痘ウイルスは4000年ほど前に、ヒトにだけ感染するよう変異したものと推測されています。紀元前1157年に亡くなったエジプトの王ラムセス5世のミイラには顔に天然痘による病変が見られ、天然痘のために命を落としたと考えられています。

実は現時点で、人類が地球上から根絶できた唯一の感染症が、この天然痘です。18世紀半ば頃、ウシの病気である牛痘(これは人間にも感染するのですが、天然痘のような瘢痕を残さず軽症で済みます)にかかった者は天然痘には罹患しないということがわかってきました。イングランドの開業医、エドワード・ジェンナーはその事実に着目し、1796年、8歳の少年に牛痘の膿の接種を繰り返した後に天然痘の膿を接種し、発症しないことを確認しました。

これにより人類初のワクチンである天然痘ワクチンが誕生し、この牛痘接種(種痘)によって天然痘予防の道が開かれたのです。ちなみに「ワクチン」という名称は、それから約100年後にフランスのパスツールによって命名されています。これはラテン語で雌牛を意味する「Vacca」に由来し、牛痘に着想を得たジェンナーの功績をたたえたものです。

人類が天然痘に勝利するまで4000年

この種痘の技法は瞬く間に世界中に広まり、日本では江戸時代末期の1858年、神田に「お玉が池種痘所」が設置され、のちの東京大学医学部の前身となったことはご存じの方も多いかと思います。日本国内における最後の天然痘患者の発生は1955年、世界では1977年でした。

WHOは、ジェンナーによる天然痘ワクチンの開発から184年後の1980年に天然痘の根絶を宣言しました。約4000年の長きに亘った、天然痘ウイルスとの戦いの歴史が、ついに終わりを迎えた瞬間でした。現在は自然界において天然痘ウイルスは存在せず、米国とロシアの研究機関のみが保管しているとされています。ただしバイオテロを狙う国家勢力の存在は否定できないため、我が国自衛隊ならびに在韓米軍兵士には現在も天然痘ワクチンが接種されています。

感染症根絶の3条件とは

さて、どうして天然痘は根絶できたのでしょうか。特定の感染症が根絶可能かどうかは、以下の3つの条件が必要とされています。
1:症状が外見的に明確であるなど、感染者の特定が容易である
2:感染と発症が「ヒト」のみに限られる
3:すぐれたワクチンが存在する
具体的には、国際ロータリーも根絶に注力するポリオ、それに麻疹(はしか)が根絶可能な感染症の候補に挙げられます。

さて、上記3条件に対して、今般のCOVID-19はいかがでしょうか?感染者の特定には困難が伴い、そもそもコウモリ由来とされるウイルスですので現時点でヒトにのみ感染するとは言えず、ワクチンは開発途上で、完成したとしても世界中に行き渡るには年単位の時間がかかります。

アンチワクチンな人びとをめぐる諸問題

このほか、特に先進国ではアンチワクチン運動の問題もあります。ワクチンの副作用をことさらに強調して製薬メーカーを攻撃したり、ひどい場合は先ほどのビル・ゲイツ氏こそがCOVID-19パンデミックの黒幕だ、とする陰謀説を信じる人も一定数存在します。

言うまでもなく、ワクチンは安全性と有効性の高いものだけが認可されるべきですが、開発競争には各国の政治的思惑も絡み、状況を複雑化させています。また接種するかどうかは原則的に個人の自由ですので、ワクチンを打ちたくないという人に強制的に接種することは困難です。

このような状況に向き合うのには非常に大きなエネルギーを要します。アンチワクチンにせよ、陰謀論にせよ、放置すると新たな社会的分断の火種となりかねない問題ですが、といって彼らの主張を封殺することは、民主主義国家の自殺行為のようにも思えます。

アンダーコロナでも、我々は満たされ得るのか?

ともあれ、アンダーコロナにおいては、感染の拡大を防ぎながら経済活動を維持することが、大きな課題です。COVID-19を数年以内に「根絶する」ことは難しいという事実は認識しつつ、しかし「パンデミックに強い社会を作っていかなくてはならない」という点については誰もが同意するところでしょう。これからの社会参加や経済活動の在り方、同僚や家族や友人との過ごし方について、新たなコンセンサスを築く必要があります。

我々がこれから目にする、新しい日常:new-normalは、謂わば「全てが新しく満たされた状態:new-well-being」を目指すものでなくてはなりません。私はひとまずそれを、今回のパンデミックに対する勝利と呼んで良いように感じます。

課題先進国と呼ばれて久しく、社会の様々な制度疲労が露呈する我が国こそが、アンダーコロナにおける新たなウェルビーイングをいち早く確立し、世界に範を示す必要があるのではないでしょうか。

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